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2022年10月27日

沖縄戦戦没者の遺骨が含まれる土砂を使わせてはならない

2021年2月

平成31年に実施され、7割の県民が「反対」に投票した「辺野古米軍基地建設のための埋め立て
の賛否を問う県民投票」。
その結果が示されたにも関わらず、政府によって今この時も建設工事が進んでいる辺野古米軍新
基地。
そして現在、沖縄本島南部の激戦地の未だ沖縄戦戦没者の遺骨が残る緑地を、新たに採石場と
して開発し、そこから採取した土砂をその辺野古の海の埋め立てに使われる恐れが出てきた。
沖縄防衛局は大浦湾の軟弱地盤を受けて、埋め立て設計変更承認申請を提出。その中で埋め
立てに必要な土砂の総量は大幅に増加し、調達地域も以前は県外から7割の調達だったのが、
そのほとんどを県内で賄えるとした。その採取地域に沖縄戦激戦地である糸満市、八重瀬町が他
の市町村とともに追加されたのだ。
そして防衛局との契約前に見越しの採石場開発が進みつつあるのが、今の現状である。
それが発覚したのは、30年以上ボランティアで遺骨収集を続けるガマフヤー具志堅さんによるも
のだった。
9月末から10月上旬、遺骨収集にとりかかり実際に遺骨が見つかっていた魂魄の塔にほど近い
山林が、次に来た時には木が一面伐採されていた。
そしてその疑念を持っての具志堅さんの記事が新聞に掲載されて後、ロープが張られ立ち入り禁
止になってしまった。
今現在は採取業者の行政との手続き上不備があったということで、疑惑の鉱山開発はストップして
いる。しかし、その書類が提出されれば行政は許可不許可ではなく、受理することで開発は再開
可能だという。
皆さんともしくは親戚、先祖と戦争とのつながりはなんでしょうか。
戦争で亡くなった、怪我を負った、戦争時代を生きていた。
何も関りがなく、いまこの時代に生きている人はいないだろう。
何かしら繋がりがあるはずである。
戦争当時、沖縄に居た先祖がいる、という人はいるだろうか。
私の祖父は第二次世界大戦時、兵士として沖縄に居た。
沖縄の激戦地南部の摩文仁にて、牛島中将が自決し日本軍の組織的戦闘が終わりを迎えた、6
月23日以降の7月に胸に銃弾を受け、大怪我し捕虜になったと聞いている。
またその弾を受けたと証明する軍によって出された書類も残っている。がしかし、政府からの補償
は受けられなかったという。
その身体から取り切れない破片で祖父は戦後、熱を出したりして大変だったと、叔父は話してくれ
た。
沖縄に来てより沖縄戦を知ることになった私は、あの状況で生き残ったことは稀であることを実感し
ている。
連合軍が残した沖縄戦の映像を見るたびに、痩せ細り褌一丁で不安そうな顔をして映る兵士たち
の中に祖父がいるのではないかと、つい探していたりする。
そしてそこに映る沖縄の住民たちの中に、祖父と何か言葉を交わした人がいるかもしれない、交
流があったのではないか、と想像する。そしてそれがどんな関りであったろうかと思うと、少し不安
な気持ちになる。戦争は殺し、殺される世界であるし、沖縄戦の教訓は「軍は住民を守らない」で
あり、日本軍による住民の犠牲が数多くあったのを知っているから。
私が物心つく前に亡くなった祖父は、生前ほとんど戦争について語らなかったという。
母は「私が生き残ってしまって申し訳ない。」「沖縄の人々は優しかった。」と祖父が話したことは覚
えていた。そして祖母も祖父からほとんど聞いてなかったそうだ。
戦後随分経ってから、祖母と祖父は沖縄に旅行に来ている。
祖母も亡くなった今では、沖縄のどこを、何を思い巡ったのかは知る由もない。
繋がりがあるのに今では辿ることが難しい、その記憶を繋ぐように戦没者が眠る地。
それが沖縄南部地域である。
私にとっても特別な地である。
私も沖縄に住み、沖縄戦、戦後の沖縄の歩みをより深く知るようになって、沖縄の人々が米軍基
地に声を上げる理由を深く理解できるようになった。
県によると今もなお沖縄戦の戦没者のうち、2849柱がいまだ見つかっていない。

2016年に施行された戦没者遺骨収集推進法は、遺骨収集を国の責務としている。
具志堅さんが案内してくださった遺骨収集に現在取り組んでいる緑地帯には、狭い岩と岩の間に
骨や生活用品が残され、岩壁には弾の跡が残っていた。
そして「この1メートルくらいでしょうか。この四角の範囲で15の弾がみつかりました。」と言った。そこ
は、岩と岩の間の狭い隙間にかつて身を隠していただろう方の遺骨から、5メートルも離れていな
い。自分の足でこの鬱蒼とし湿り気のある緑地帯に立ち、その少し掘られた1メートル四方の窪み
を見ていると、沖縄では有名な「鉄の暴風雨」をまさに手に取るように感じ、その瞬間に生きていた
人と近くなったようで心がギューッと締まるようだ。
点在するそんな場所が、遺骨が語る隙も与えないまま、私たちは聞く耳を持たないまま土砂として
削り海に投げ込もうとしている。
法律の通り、国の政策で犠牲になった遺骨を収集することは国の、今を生きる私たちの責任だと
思う。
それ以上に犠牲者に目を向けること、思うこと、考え続けること、遺骨を収集し向き合うことは、今を
生きる私たちへの「どう生きるのか」という問いに対して応えてくれるような気がするのだ。何が本質
であるのか。これからを生きる私たちの糧になるのだと思う。
シンプルに受け取りたい。
未だ遺骨が残る緑地帯に遺骨収集の専門家の立ち入りなしに、ダンプやショベルカーで入り、山
肌を削り、石灰石と見分けのつかない細かい遺骨を含んだその土砂を北部の辺野古に運び、そ
れをエメラルドの海に投げ入れる。
海面上より10メートルほど土砂を積み上げた上に滑走路を造り、そこを爆音を発しながら攻撃機
能を持ち合わせた軍用機がどこかに飛び立ち、何かを破壊し戻ってくる。
下には「もう繰り返さない」と決意したはずの、かつて時代の国策によって犠牲になった人々が悲
劇の記憶を残したままバラバラになって眠るのだ。
何か心に引っかかりを感じないか。
私が育った小笠原諸島の硫黄島では今もなお1万柱の遺骨が未収骨で、現在使われている自衛
隊の滑走路の下にも残っているのではと聞いたことがある。
それも心に異音が響くのを感じないだろうか。
それは用途が軍事基地に限らずとも。
沖縄南部地域を歩くたびに思う。
この地域は特別だ。地域全体で語りかけ、悼んでいるように感じるのだ。
住宅地のすぐそばに沖縄戦慰霊碑が数多く佇み、そこに犠牲者の名前がところ狭しと刻まれてい
る。
住民や兵士が隠れていたという壕も各所に残され、そこにはそれを説明する物があったりなかった
りする。
一家全滅したため拝みどころだけがある空き地が何か所もある。
摩文仁の丘には広大な面積の平和祈念公園。そこには全県の慰霊碑が並び、平和の礎には沖
縄戦による犠牲者、敵も味方も関係なく名前が刻まれている。
ここに立つだけで声を聞くことができ、肌で、五感で何かを感じることができる。
自分がそこで受け取った何かはこれからの自分を支えてくれるのだ。
この沖縄戦には世界各地の多くの人が関わった。
そんな繋がりをもつ、もしくは持たない人々も世界から数多く訪れる。
敵味方関係なく犠牲者の名前が刻まれる慰霊碑は珍しいという。
例えば他国の人から見たときに、この今の成り行きをどうとらえるだろうか。
壊して作ることで儲かる仕組みに従順することをしょうがないとし、無造作に採石場として開発する
ことを許していいのだろうか。
私たちはまだまだ遺骨から発せられる声から、見えるものから何かを感じ取る必要があるのではな
いか。
それを見逃し、大きな損失をしたと思ってからでは遅いのだ。
戦没犠牲者を悼まないこと、忘れること、向き合わないことは、それだけに決して留まらないのだ。
私たちはその時、広い道を失うのかもしれない。
もう何かを破壊し、新しいものを生み出しているような気になっている仕組みを終わりにしないか。

もう一度、眠る遺骨に耳をすませることはできませんか。



Posted by プッタ at 14:18│Comments(0)
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